臓器移植と脳死


臓器移植法改正案のA案が先月18日衆議院を通過し、
現在、参議院にて審議されている。
私は法案の詳細は知らないし脳死の判定基準に興味があるわけではない。
それでも、その法律によって私の臓器が誰かに提供されてしまうことが、
起こりうるのであるのであれば、
脳死について考えてみることくらい許されてもいいだろう。


脳死は人の死か?」このところ、メディアでこの言葉を聞かない日はない。
人の死とは、とても曖昧なものである。
とりあえず、現在、私たちが住まうこの社会においては、
心臓死が死の基準としては、もっとも合意の得られる基準であろう。


しかし、医術の発展により脳死後の臓器移植という、
技術がある程度発達し、なんだかの臓器に疾患のある方に、
その臓器を移植することによって、
ある個体の生命を続けることが可能となってしまった。
選択の可能性が増えたこと自体は人類はこの発展を言祝ぐべきなのかもしれない。
しかしそのために、我々はややこしい話を考えなければならなくなってしまった。


死とは、ある時ここからが死で、ここまでは生と定義できる性質のものではない。
心臓死の後でも毛髪は伸びる。
当然、心臓という一つの器官が死を迎えることで、
身体の血液の循環がなされなくなり、それぞれの器官はゆっくりと死を迎える。
肝臓などは、心臓死後の移植が可能なことをみると、
その時点では肝臓という器官は死んでいないということだろう。
また、腎臓が機能していなくても週に何度かの人工透析で生きることができるならば、
器官の死は個体の死ではないと考えて良さそうだ。


そして、形は残る。残った形は人ではないのか?
構造と機能。
機能が失われ構造のみになった死体は、人ではない。
そんなことも無いように思う。
少なくとも、燃えるゴミの日に出していいようなものではない。


それでは、構造を棄損する行為は人殺しではないか?
かといって、現代この国では死体はだいたい火葬される。
コンクリートに詰められて海底に沈むこともあるだろうが、
とりあえず、火葬してそれでいいことになっている。
あまり、火葬場で死人が生き返ったという話も聞かないので、
それでいいのかもしれない。


とにかくこの件に関しては、法人としてのヒトの
死を決める法律であって、生物としてのヒトの死を問題にしているのではない。
ということは、科学を論拠にあげるのもあまり正しい方法では無いようにも思う。
法人という言い方が適正でないならば人間としてのヒト。
社会に生き、共同体に属するヒトの死の問題である。


しかし、脳死の場合、呼吸もあれば脈拍も残っている。
時を刻んでいる身体である。
それが、不可逆に死に向かう、という偉い人たちが作った、
なんだかの基準によって、
死と定める。
であるならば、すべての生命は生まれた限りは死ぬに決まっている。
それだって不可逆なはずだ。
というような理屈は屁理屈なのだろうか?


話を臓器移植に戻そう、
このことを考える思考実験の例として筋肉死を考えてみよう。
筋肉死、文字のとおり、筋肉が死に脳は生きている。
そして、人工呼吸器を使えば生きていることができる。
しかし、人は筋肉の動作以外で情報をアウトプットすることができない。
入力するためには視聴嗅味触5つもの感覚があるのに、
アウトプットに使うことができるのは筋力のみである。
脳は動いていて、意識はあるのだけれど何もできない状態、
そういうことがあるそうだ。


さて、この筋肉死の人の脳を、
脳死の人に脳移植することを考える。
ややこしい話になる。
脳だって身体の器官の一つなので、技術的に可能かどうかはさて置いておいて、
そんなことを考えても悪いことは無かろう。


このとき脳に身体を移植するのか、身体に脳を移植するのか。
医者は誰に手術代を請求すればいいのか?
心身二元論を採用し、意識を司る脳を人間の本体と考えていいのだろうか?
とはいっても、スプーンで脳を削っていけば意識だってなくなる。
機能は構造からは逃れら無いにも関わらず、
意識という機能は、構造よりも偉そうな顔をする。
まあ、そういうものだ。


移植後、何年かすればそれぞれの臓器を構成する細胞が、
遺伝子レベルで置換されるのだろうか、浅学にして知らない。
それならば、上のような場合、組み合わせたパーツはどうなるのだろうか?
脳に倣うのか、身体に倣うのか。
そうでなければ、生殖に関する精巣や卵巣を個人を判別する基準とすればいいのか?
何とも、ややこしい話である。


そのようなややこしい話を避けるためには、新しい個体が生まれたと考えればよいのか?
それはそれで、親権や遺産はどうなるのだろう?
移植後の法人としての継続性は、どのように考えればいいのだろうか?
私が、心臓移植を受けたとして、
そのドナーが多額の借金を背負っていた場合、
私にはその借金を払う義務があるような気もする。
ドナーに子供がいた場合、それは私の子になる。
親がいた場合、それは私の親になる。
そういうものではないか?


この場合やはり、新しい個体が生まれたと考える方が
何となく、すっきりする。
それらをすべてを背負った個体が。
脳が作り出す意識はそれを否定するかもしれないけれど。。。。。