コミュニケーション

会社に勤めはじめ5年ほどったたが、
いろいろ、立場の変化などあり、
これまで、行ってきたコミュニケーション手法に
限界が来ている。そんな気がする。


当然、従来の手法が完全に機能不全に落ちいって、
それを廃棄し新しい方法を必要としているわけではなく、
その、改変を迫られている。


大きな変化としては、10人前後のアモルファス的な組織が、
ツリー状の組織30人程度の組織に成長し、
数人の部下らしき人々ができたこと。
それと、組織の日本人率が上がり公用語が、
英語から日本語へとシフトしたことに対する、
非日本語話者からの不満。


今日は、この英語と日本語の話を考えたい。
日本の企業にて非日本語話者が働く場合、
大きな壁になるのは日本語だろう。
職種にもよるだろうが、技術や研究職の場合、
元々日本語を覚える気がない人々が多い。
社内では、その障壁よりも高い技術を持ち、
製品の開発に関して主導的な立場で日々の仕事をこなしている。
しかし、うちの会社では顧客が100%日本の会社なので、
顧客とのやりとりは、日本語で行われる。


この場合、原理的に彼らは顧客からの、
要望、クレームに対して遅れを持つ。
その、顧客からの日本語で発せられた言葉が、
社内の誰かの手によって英語化されるまで、
彼れらは、メールのCCにアドレスを連ねようと、
その内容を知ることはできない。


特に、緊急の場合彼らには何の報告もなく事が進むことになる。
彼らが事象の当事者でない場合。

その、遅れに関して彼らの取れるソリューションは、
日本語を学ぶか、それを許容しその報告が無くとも、
回るように自分の仕事を構造化するかのどちらかしかない。
船が座礁しようとしているときに、
船外にその詳細を伝えるのは、船客で船員ではない。
船員は全身全霊を込めて船の座礁を退けねばならない。
そして、我々の場合船客は日本語でその被害を訴える。


日本語を学ぶ気がないのであれば、緊急事態においては
ただ、嵐が収まるのを待つメンタリティーが必要だ。
事後に、ドックで折れたマストの再建や船体にあいた穴の修理に
せいを出していただれば、それでいいし、
そのような配置になっているのだが、
そうもいかない、船員でありたいという、
気持ちがある。そのこと自体はありがたいことなのだが、
嵐の間、血を流して不眠不休でそれに対応している船員に対して、
顧客からのメールを英訳せよ等というアホな指令が飛ぶことになる。


そのことによって、少しでも状況が改善したり、
仕事量が減るのであれば喜んで、訳すのだが、
ただの仕事量の純増に成ることがほとんどである。
しかも、顧客からのメールは極度に技術的で文脈依存的な
文章であり、翻訳家たちの手に負える物ではない。


しかも、その不理解は言語障壁による物ではなく、
状況理解の甘さに起因することがほとんどなのだが。。
言語の障壁によるものであるとの主張を繰り返す、
と、いういう大変不毛な状況に陥っている。
自らの無能を他者にお仕着せている構図だ。


それに、まず考えるべきなのは、
なぜその情報が、自分に入ってこないのか、
ということだろう。
情報は、等価交換的に扱われる物ではない。
それは、現在においても完全に贈与の原理の基づいて、
交換される。
すなわち、どうしてもこの人に伝えなくては仕事が進まない、
とか、この人に伝えれば喜ぶだろうなとか、
そのリアクションがみてみたいとか。
そのような、モチベーションを基に情報は交換される。


それに、受け手がその情報を意味として分節できていない場合、
その情報は無かった物として扱われる。
人は情報を受け取った時点で、
自己にその解釈能力が無い場合その情報の意味を
理解することはできない。
逆に、発信者がたいした価値の無い物であると、
感じていたとしても、その受信者が、
その情報に途方もない価値を見いだすことも珍しいことではない。
情報を受け取るということは、
他者を通じて自己に向き合うことに他ならない。


さらに、ある事象が誰かの手によって記号化された瞬間に
その情報は、編集されなんだかのバイアスがかかっている。
それは、その編集者のおかれた、立場や生い立ち、
その日のコンディションよって同じ事象から紡ぎ出される情報は、
ずいぶん変わった物となる。


だいぶん、話が脱線した。
そのような、ここ数年続いて、
何の改善もみられないような案件に関しては、
コミュニケーションとは何かというように、
普段我々が考えているよりも上位の概念に、
立ち戻らなくてはならないのだけれども、
それは、とっても面度くさいんだな。

キャピタリズム

ずいぶんと、久しぶりに劇場で映画を見る。
キャピタリズム
年の初めから、景気の悪い話である。


話は、2008年のリーマンショック以前以後の、
ウォール街の腐敗、
そのことによってウォール街の住人以外の普通のアメリカ人が
いかに深く傷つき、理不尽な経済状況を享受しているかということを、
主張している。


そして、資本主義がいかにばかげてるか、
ということをキリスト教、古き良きアメリカ、合衆国憲法、民主主義等の
対立軸を駆使しあぶり出そうとしている。


どうも、マイケルムーアの言うキャピタリズムとは、
金融資本主義のことで、産業資本主義であったり、商業資本主義、
農本主義などは、含まれていないようだ。
少なくとも、古き良きGM等は肯定的にとらえているので、
資本主義をまっると否定しているわけでもない。たぶん。
あくまで彼の敵はウォール街である。


この映画の中で語られる物語にどれほどの真実が含まれ、
どれほど情報が恣意的に操作されているか、私にはわからない。
しかし、アメリカ人がこの映画を作製し、
彼らのマーケットの中で支持する層があるというこは、
少しは、救いになるだろうか。


サブプライムであったり、金融デリバティブであったり、CDSであったり、
それらの明らかに悪意を持って複雑化された、
一般人には意味不明で、それらを扱う当人でさえ説明不可能な商品を作製して、
売りさばいた金融会社の経営者たちをムーアは痛烈に批判する。
そして、リーマンショックさえ彼らの陰謀であったことをほのめかす。


なのに、結論はなぜか「資本主義から民主主義へ」
という、なにやらかみ合わない方向へ向かうのである。。。。。


この映画を見た後、金融とはいかなるものであるかを考えるために
網野善彦の「日本の歴史をよみなおす」をひらいてみた。

金融についても同じような問題があります。
モノを貸して利息を取るということがいったいどうしてできたのかということは、
考えてみると大変不思議なことです。
世界的に見た場合、どうなのかは知りませんが、日本の社会の場合、
金融の起源を古くさかのぼってみますと、
出拳に帰着します。


出拳は、稲作と結びついており、最初に穫れた初穂は神に捧げられますが、
それは神聖な蔵に貯蔵される。
日本列島の社会では、それを管理したのは共同体の首長だと思いますが、
この蔵の初穂は、次の年、神聖な種籾として農民に貸し出される。
収穫期がくると、農民は蔵から借りた種籾に、
若干の神へのお礼の利稲(利息の稲)をつけて蔵に戻す。
この循環が出拳の基本的な原理だと思うのです。

網野善彦 「日本の歴史をよみなおす」(p60) ちくま学芸文庫

ということだ。
利息は、土と時間を用いて労働力を注入し、価値を増殖することによって支払うことが可能となる。
現在のウォール街で行われているような金を金で買う、
商品やサービスを介さずに、その商品の市場での売り買いのタイミングによって、
利益を得る手法は、常識的には博奕の範疇に入るのだと思う。


耕すことを知らない、もしくは拒否した、
彼らのルールでは誰かが儲けるということは、誰かが損するということに他ならない。
記号のやりとりの中で、富の総量がが増殖することはあり得えず、
その配分が変化するにすぎない。
そして、いつだって儲けるのはルールを熟知した、場を支配するウォール街の住人であって、
賭場に無自覚のまま出入りする一般市民ではない。
(その一般市民がイノセントで、無罪というわけでも無いだろうが。。。)
このような、あまりにも非対称な状況は賭場においては”いかさま”と呼ぶんじゃないだろうか。


問題は複雑化した金融市場なんかではなく、
シンプルになりすぎた、価値観なんだろうと思う。


銀行口座に記載される数字の多いか少ないかが、
その人の価値を決めることができるという錯誤。
人間の全ての活動、財産をお金という単一のスケールによって、
計ろうとする思考停止。

なんだか話がチープになってきた。


そういえば、”男はつらいよ”の主題歌に
「目方で男が男が売れるなら、こんな苦労もかけまいに、かけまいに」
という歌詞があったな。。。


やっぱ、年の初めは「寅さん」の方がよかったのかな。うん。

臓器移植と脳死


臓器移植法改正案のA案が先月18日衆議院を通過し、
現在、参議院にて審議されている。
私は法案の詳細は知らないし脳死の判定基準に興味があるわけではない。
それでも、その法律によって私の臓器が誰かに提供されてしまうことが、
起こりうるのであるのであれば、
脳死について考えてみることくらい許されてもいいだろう。


脳死は人の死か?」このところ、メディアでこの言葉を聞かない日はない。
人の死とは、とても曖昧なものである。
とりあえず、現在、私たちが住まうこの社会においては、
心臓死が死の基準としては、もっとも合意の得られる基準であろう。


しかし、医術の発展により脳死後の臓器移植という、
技術がある程度発達し、なんだかの臓器に疾患のある方に、
その臓器を移植することによって、
ある個体の生命を続けることが可能となってしまった。
選択の可能性が増えたこと自体は人類はこの発展を言祝ぐべきなのかもしれない。
しかしそのために、我々はややこしい話を考えなければならなくなってしまった。


死とは、ある時ここからが死で、ここまでは生と定義できる性質のものではない。
心臓死の後でも毛髪は伸びる。
当然、心臓という一つの器官が死を迎えることで、
身体の血液の循環がなされなくなり、それぞれの器官はゆっくりと死を迎える。
肝臓などは、心臓死後の移植が可能なことをみると、
その時点では肝臓という器官は死んでいないということだろう。
また、腎臓が機能していなくても週に何度かの人工透析で生きることができるならば、
器官の死は個体の死ではないと考えて良さそうだ。


そして、形は残る。残った形は人ではないのか?
構造と機能。
機能が失われ構造のみになった死体は、人ではない。
そんなことも無いように思う。
少なくとも、燃えるゴミの日に出していいようなものではない。


それでは、構造を棄損する行為は人殺しではないか?
かといって、現代この国では死体はだいたい火葬される。
コンクリートに詰められて海底に沈むこともあるだろうが、
とりあえず、火葬してそれでいいことになっている。
あまり、火葬場で死人が生き返ったという話も聞かないので、
それでいいのかもしれない。


とにかくこの件に関しては、法人としてのヒトの
死を決める法律であって、生物としてのヒトの死を問題にしているのではない。
ということは、科学を論拠にあげるのもあまり正しい方法では無いようにも思う。
法人という言い方が適正でないならば人間としてのヒト。
社会に生き、共同体に属するヒトの死の問題である。


しかし、脳死の場合、呼吸もあれば脈拍も残っている。
時を刻んでいる身体である。
それが、不可逆に死に向かう、という偉い人たちが作った、
なんだかの基準によって、
死と定める。
であるならば、すべての生命は生まれた限りは死ぬに決まっている。
それだって不可逆なはずだ。
というような理屈は屁理屈なのだろうか?


話を臓器移植に戻そう、
このことを考える思考実験の例として筋肉死を考えてみよう。
筋肉死、文字のとおり、筋肉が死に脳は生きている。
そして、人工呼吸器を使えば生きていることができる。
しかし、人は筋肉の動作以外で情報をアウトプットすることができない。
入力するためには視聴嗅味触5つもの感覚があるのに、
アウトプットに使うことができるのは筋力のみである。
脳は動いていて、意識はあるのだけれど何もできない状態、
そういうことがあるそうだ。


さて、この筋肉死の人の脳を、
脳死の人に脳移植することを考える。
ややこしい話になる。
脳だって身体の器官の一つなので、技術的に可能かどうかはさて置いておいて、
そんなことを考えても悪いことは無かろう。


このとき脳に身体を移植するのか、身体に脳を移植するのか。
医者は誰に手術代を請求すればいいのか?
心身二元論を採用し、意識を司る脳を人間の本体と考えていいのだろうか?
とはいっても、スプーンで脳を削っていけば意識だってなくなる。
機能は構造からは逃れら無いにも関わらず、
意識という機能は、構造よりも偉そうな顔をする。
まあ、そういうものだ。


移植後、何年かすればそれぞれの臓器を構成する細胞が、
遺伝子レベルで置換されるのだろうか、浅学にして知らない。
それならば、上のような場合、組み合わせたパーツはどうなるのだろうか?
脳に倣うのか、身体に倣うのか。
そうでなければ、生殖に関する精巣や卵巣を個人を判別する基準とすればいいのか?
何とも、ややこしい話である。


そのようなややこしい話を避けるためには、新しい個体が生まれたと考えればよいのか?
それはそれで、親権や遺産はどうなるのだろう?
移植後の法人としての継続性は、どのように考えればいいのだろうか?
私が、心臓移植を受けたとして、
そのドナーが多額の借金を背負っていた場合、
私にはその借金を払う義務があるような気もする。
ドナーに子供がいた場合、それは私の子になる。
親がいた場合、それは私の親になる。
そういうものではないか?


この場合やはり、新しい個体が生まれたと考える方が
何となく、すっきりする。
それらをすべてを背負った個体が。
脳が作り出す意識はそれを否定するかもしれないけれど。。。。。

神は死んだ

神が死んだ。
ロックの神と呼ばれた男が。
忌野清志郎と名乗った神が癌という病で。


ロックを仮名化した、日本ロック界の神であった。
日本人が初めてロックに接し、しばらくの間は、
ロックは当然、英語で歌われるものであった。
少なくとも、英語もどきの日本語で歌われた。


それは、日本人が初めて大陸から流入した
文字と接したとき、しばらくは漢文でしか書くことができなかったように。
その後、紀貫之紫式部清少納言などなどを経て、
鴨長明吉田兼好が日本語で書く手法を生み出し、
二葉亭四迷夏目漱石がいて、
今、私は、日本語を書くことができる。


そして、今、多くの日本のミュージシャンが、
日本語で歌うことができるのは、
忌野の仕事の恩恵なしにはあり得なかったことだろうと思う。
当然、彼一人がその役を一人で担った訳ではないだろうが、
絶大な影響を与えたのは間違いない。


彼の、使う日本語は確かで、かつ、ロックだ。
ほとんどの彼の歌は、歌詞カードなしでキャッチアップ可能だし、
初めて聞いたそのときに、何が言いたいかが、
明確に伝わってくる。
かといって、歌詞の構造が単純であるとか、
テーマがストレートであるとか、そういうことではない。


メタファーや、ダブルミーニングを多用し、
高度なレトリックを使用し高度に組織されている。
それでも、彼の歌にはストーリーがあり、
彼の歌わなければならない、歌わずにはいられない、
そんな想いがにじみ出ている。
間違いなく、現在の日本語話者の中で、
最高峰の歌を詠む、
歌人であったと私は評価する。


そして、私個人としては、
忌野は恩人である。
当然、ライブに何度か行ったことがある程度で
直接話したこともないわけだが、
私のiTunesの忌野のフォルダーには、
27時間の彼の音楽が記録されており、
私は、10、20代の多くの時間を彼の音楽と共に生きてきた。


何よりも、衝撃的であったのは、中古CD屋で、
何となく買い、その帰りに地下鉄の中で聞いた、coversであった。
あれは、私が16か17才のことであったと思う。
coversがリリースされたのが、私が10才の頃なので、
6,7年たってからのことだ。
あのとき、あのアルバムに出会っていなかったとすれば、
その後、私の人生はずいぶん違ったものになっていたように思う。


いや、それを聞いてバンドを始めたとか、
難解な方程式を解いたとかそういう出来事が、
あったわけではないのだが、
私は、このアルバムにであって、
言いたいことは、言っていいんだと、
そのことを教えていただいた。


本当にそのアルバムを地下鉄でポータブルCDプレーヤーにセットして、
聞いたとき、心拍が高まり、目線が定まらない、
とんでもないものを、聞いてしまったという感覚。
決して、TVやラジオから流れることのない、言説。
その歌声に震撼し、目から鱗が落ちた。


そんな、神、忌野が癌という病に冒された。
30代前半で彼は、肝臓を壊し、
医者から一生直らないという宣告を受けたことがあるそうだ。
しかし、その後、東洋医学による治療を受け完治、
医者から奇跡だと言われたという。


アルバム[不死身のタイマーズ/The Timers]の中の、
「イツミさん」でも西洋医学を批判し、
癌治療に疑問を投げかけている。
西洋医学を素直に信用できない状態で、癌に立ち向かい、
再び歌うことを夢見て神は逝ってしまった。
本当は、声なんて彼の才能のほんの一部なのに。
バンマスとして戻ってきてくれれば、
ボーカルなんて、誰でもよかったのに。
いや、誰でもよかった訳ではないけれども、
忌野バンドのボーカルなら。。。。

何を書けばよいのやら


ブログを書く習慣がとぎれずいぶんたつ。
書くことがないから、書かないのか、
書かないから、書くことがないのか?


たぶん後者なんだろうと思う。
特に、書かなければならないことがあるわけではない。
誰かに、どうしても伝えなければならないことをここで、
書こうとしているわけではない。
かといって、書かなくてもいいわけでもない。
その程度の、文章。
思考の整理?


それならば、インターネット上にアップロードする必要もない。
そうではないか?
ただ、書いて、消去すればよろしい。
では、私は誰に向けてこの文章を書くのか?


私が、今のところ確実にこのブログの読者として
想定できるのは、未来の私をおいてほかにない。
しかし、それならば、ハードディスクの片隅にでも保存しておけばよろしい。


それでも、インターネットの末席を汚す理由とは何だろうか?
誰かに、読んでもらいたい。
そのような欲求が確実に私の中にある、のだと思う。
しかし、インターネットにアクセスしていて、
かつ、日本語を解する人すべてにこの文章を読んでいただきたい
などという、大それた欲求があるわけではない。
世論を動かしたいとか、癒しを与えたいとか、
誰かを傷つけたいとか、誰かを救いたいとか、
そのような思いを込めて書いているわけでもない。


なぜか、縁あってここにたどり着かれた方が、
ここで、これらのテキストに出会う。
そのテキストは私の書いたものなのだけれども、
この、ブログにアップロードされた時には、
匿名化され、誰もこれらの言説に責任をとる人はいない。
そんな、ゴミのようなテキストをそれでも、
アップする理由がいまひとつわからない。


それでも、たぶん、ブログという場があるので書くのであって、
ここに日記帳があっても私がそれに日々書き込みを続ける姿は想像ができない。
やはり、書いた文章が誰しれず読まれる、かもしれないので書いているのだろう。


なんだか、徒然草みたいになってきた。
そんな高級なものではないけれど。
そういえば、兼好法師はとうの昔に往生され生身の人間としては、
徒然草に責任をとる人はもういない。
それにも、関わらず700年近くこのテキストは読み継がれている。
この種の議論は少なくとも日本人が、和漢混淆文で文章を書き始めた、
そのころから、抱いていたということなのか知らん?
このテキストが世紀を超えて読み継がれるようなことはないだろうけれども。。。。

イスラエルはナチスになるんだろうか?

20世紀きら星のごとく世界をかけた天才達、
ファイマン、レヴィ=ストローススピルバーグ
アインシュタインレヴィナスフッサールハンナ・アーレント。。。。


カール・マルクスユダヤ人っだった。


アウシュビッツを経験した、
民族浄化に恐怖した人々により建国された国。
その国が、パレスチナに住まう人々に対して、
その存在を殲滅させるような、戦をつづけている。


その攻撃の対象であるハマースがガザにおいて、
市街でのゲリラ戦という一般の民を盾に取った
最も愚かな戦略を取りイスラエル軍を迎え撃とうとしていることは、
決して正しいことではない。


しかし、圧倒的な戦力の不均衡が、
正規軍さえ持たないハマースをこの悲劇的な戦略に追い込んだということだろう。
女、子供、老人の血を流すことでしか、
その存在の正当性を主張することができない。
愛する人々の血をもってしか対抗することができない。
最低の選択をせざるを得ないところに追い込んでしまったイスラエル
そして、その戦略に乗り爆撃を続け、地上軍を展開する。


イスラエルユダヤ人は、この状況に既視感を覚えないのだろうか?
あの、前世紀ナチスによって、実行された民族浄化
彼らは、21世紀のナチスになることを厭わないのか?
民族浄化の被害者というトラウマを持つこの国は、
そのトラウマを加害者の立場で繰り返してしまうのだろうか?

金で金を買える分けもなし


アメリカで投資会社や保険会社、銀行の破綻や公的資金の注入、買収が続いている。
金で金を買い、金を儲ける企業の破綻だ。

金が金単独で増殖することがあり得るのか?
否。金は金単独で増殖することはあり得ない。
所詮、紙に印刷された数値だとか、
銀行のコンピュータ内での電子情報が、それのみで増殖することはあり得ない。


価値が増殖するためには、労働や大地、そして時間が必要だ。


普通、何も仕事をしなければエントロピーは増大する。
価値は何時だって発散する方向にある。
はて、では、何が増殖することで、これらの企業は口に糊をしてきたのか?

欲望。増殖する欲望。

食欲はお腹いっぱいになれば、それで収まる。
睡眠欲は眠りすぎればそれで収まる。
性欲だってそうだ。
身体レベルの欲望は、満たされればそれで収束し、
それ以上を望まない。いや、望めない。


しかし、金、権力、社会的地位、等々
記号レベルでの欲望は満たされるごとに、欲望がましてゆく。
他者の欲望を欲望することによって。


それらの、記号レベルでの欲得の象徴が
リーマンだったり、AIGだったり、メリルリンチだったりしたのだろう。
ケインズ美人投票の世界。
しかし、商品やサービスの伴わない、それらの手間を省いた、
記号の売り買いによる、無時間モデルのビジネスが、膨張し、支配的に成るということ、
そのことが、非常なリスクを含むことは、想像するに易い。


当然、それらの先物であったり、金融デリバティブであったり、
サブプライムローンであったりが無用であるということではなく、
節度の問題である。
実態を伴わない、幻想に支えられた世界は、
幻想にもとずき、幻想が膨張し、膨張した幻想に基づいて、さらに幻想が膨張する。
そして、幻想を基に現実を動かそうとしたとき、幻想は破綻する。
そして、その幻想に引きずられた現実は、ひずみ、無惨な残骸へとなりはてる。