何を書けばよいのやら


ブログを書く習慣がとぎれずいぶんたつ。
書くことがないから、書かないのか、
書かないから、書くことがないのか?


たぶん後者なんだろうと思う。
特に、書かなければならないことがあるわけではない。
誰かに、どうしても伝えなければならないことをここで、
書こうとしているわけではない。
かといって、書かなくてもいいわけでもない。
その程度の、文章。
思考の整理?


それならば、インターネット上にアップロードする必要もない。
そうではないか?
ただ、書いて、消去すればよろしい。
では、私は誰に向けてこの文章を書くのか?


私が、今のところ確実にこのブログの読者として
想定できるのは、未来の私をおいてほかにない。
しかし、それならば、ハードディスクの片隅にでも保存しておけばよろしい。


それでも、インターネットの末席を汚す理由とは何だろうか?
誰かに、読んでもらいたい。
そのような欲求が確実に私の中にある、のだと思う。
しかし、インターネットにアクセスしていて、
かつ、日本語を解する人すべてにこの文章を読んでいただきたい
などという、大それた欲求があるわけではない。
世論を動かしたいとか、癒しを与えたいとか、
誰かを傷つけたいとか、誰かを救いたいとか、
そのような思いを込めて書いているわけでもない。


なぜか、縁あってここにたどり着かれた方が、
ここで、これらのテキストに出会う。
そのテキストは私の書いたものなのだけれども、
この、ブログにアップロードされた時には、
匿名化され、誰もこれらの言説に責任をとる人はいない。
そんな、ゴミのようなテキストをそれでも、
アップする理由がいまひとつわからない。


それでも、たぶん、ブログという場があるので書くのであって、
ここに日記帳があっても私がそれに日々書き込みを続ける姿は想像ができない。
やはり、書いた文章が誰しれず読まれる、かもしれないので書いているのだろう。


なんだか、徒然草みたいになってきた。
そんな高級なものではないけれど。
そういえば、兼好法師はとうの昔に往生され生身の人間としては、
徒然草に責任をとる人はもういない。
それにも、関わらず700年近くこのテキストは読み継がれている。
この種の議論は少なくとも日本人が、和漢混淆文で文章を書き始めた、
そのころから、抱いていたということなのか知らん?
このテキストが世紀を超えて読み継がれるようなことはないだろうけれども。。。。