食べるということ

ashitano2005-10-10



牛肉豚肉おいしいね、でも人しか愛せない。


[捨鉢野郎のお通りだ]
フラワーカンパニーズ 作詞/作曲 鈴木圭介


私が大好きなフラワーカンパニーズの「捨鉢野郎のお通りだ」という歌の一節である。
この一節は強烈に人は人しか愛せないということと、
また人間が食べるということの生々しさを表している。
藤原新也メメントモリの中で「人間は肉でしょ、気持ちいっぱいあるでしょ」といった。


人間を肉としてとらえることは現在の少なくとも先進国においてはタブーとされている。
フラワーカンパニーズのこの言葉は少し違った角度からみれば、
藤原新也と同じように人間を肉としてとらえた言葉かもしれない。
肉である人間が肉を食べる、そういう生々しさは都市や近代国家においては、ひた隠しにされる。スーパーに行けばきれいなパッケージされた肉が並びそこには生命は感じられない。


すべての生き物の基本原理は栄養と繁殖である。
もしかしたらすべてではないかもしれないけれども、
これを怠ったもしくは遂行できなかった生命は滅びた。
栄養について、植物は基本的に二酸化炭素と水から有機物を合成し、
動物は何かを食べることで栄養を保った。


当然人も例外ではなく食べる。
エコシステムという概念上では地球上においては最高位の存在である。
最近ではエコシステムのような環のイメージよりも、
網のようなエコウェブを唱える人もいる。
まあそれはさておきエコシステムの概念で考えよう。


すべての動物は植物か動物かを食べて生き延びている。
草を根こそぎ食べてしまう羊などに比べて、
牛は草の上方部分しか食べないので、
ヒンドゥ教などでは不殺生の動物とされているが、
生命の基本単位を細胞ととらえれば、それはやはり殺生といえなくもない。


まあ、ネパールのパシュパティナートにはミルクババと呼ばれる、
牛の乳だけを飲んで生きているというサドゥもいるようだが、
それは例外中の例外として考える。
基本的に動物は殺すことで、生きることが出来る、そういう存在である。


従って、殺すことは悪いことではない。
殺生は悪ではない。もともと命そのものには意味などない。
命が何かと関わることで意味が生じるのだ。


そういう意味で自分は自分に関わることが出来ない、
よって自分にとって自分には意味がない。
意味は自分から外部に向かって、物や事に関わることで生まれる。
であるならば、自分探しなんてそれこそ意味がない、
自分が自分を見ている限り、そこは特異点であり、意味などは生じえない。


話が脱線したが、食べるということは、
身体をとおしてのコミュニケーションであるともいえる。
まず、舌で味わい食道を通って胃にいたり消化され、
それが腸で吸収され血肉となっゆく。
これは、身体を通じたコミュニケーションに他ならない。


食べるための殺生はこの国ではひた隠しにされる。
少し前まで屠殺は部落の人々によって行われた。
いまっだって現状としてはあまり変わらない。
制度としての部落がなくなっただけだ。


われわれは、死をみようとはしない。
魚は日常的にさばくけれども、鶏を絞めることはない。
腹一杯牛は食べるのだけれど牛が肉になるプロセスをみることはない。
小学校ではパン工場に社会見学に行ったけれども、屠殺場にいった話は聞かない。
もう少し殺すということを真摯にとらえる必要はないか?