オリンピック開会式

オリンピックが開会され、
ちょうど開会式の日、部屋にいたので何となく、開会式を観る。
人、人、人の開会式。
まるで、オリンピックとは関係のない、栄光の中国の歩みを、
見せつけられる。


この開会式は、ハリウッドで映画を撮っている中国人の映画監督の演出という。
たぶん私は、この映画監督の作品を一つも見たことがないので、
どのような部分が評価されて、彼がこの国家の威信をかけた、
イベントの開会式の演出に抜擢されたのかは解らない。
しかし、中国の政府が彼のハリウッドで撮影された映画を評価し、
その功績から彼が抜擢されたということは、推量される。


映画を撮るということは、どういうことかというと、
当然、映像、シナリオ、編集、音楽、キャスティング等々、非常に多岐にわたる、
芸術センスとバランス感覚はもちろんのこと、
金主の確保、ロケーションのための根回し、プロモーションなど、
大人の才能も必要になるのは予想に違わないだろう。


彼がハリウッドで成功したということは、これらの仕事をやり遂げ、
アメリカのルールで、アメリカの映画を撮ることのできる、
アメリカの映画監督であるだろう。
そのような、彼が、中国政府に認められ、この開会式を演出したということが、
この、北京オリンピックが中国の不可逆のターニングポイントになる象徴的な出来事のような気がする。
アメリカの価値観を中国が飲み込んだ瞬間だ。
フォービデンフルーツ。


ショーとしては良かったのかもしれない。
確かに、中国の偉大さを見せつけられたし、
確かに、日本は中国の辺縁だと思った。
私は、選手の入場が始まる頃に飽きてチャンネルを回してしまってけれど。(だって、長いんだもん。)
中国らしいのは、中国らしいのだけれども、こちら側から観た、中国らしさ。
それが、うまく表現されすぎていたような、
何とも、客観的に観れすぎているというか、
あちら側の中国らしさへの決別というか、
すえた臭いとか、汚れたランニングシャツとか、
排気ガスでよどんだ大気とか、常温で保存されている牛乳とか、
黒くなって溶け始めたバナナとか、
そういう、臭覚に訴える感覚からの脱出。


清潔で、無臭で、お洒落で、クールな、グローバルスタンダードに乗っ取った中国。
少なくとも、このオリンピックは全中国人民にそのような、
価値観への欲望を点火する、そのような役割を果たすのではなかろうか?
そのことで、一体中国は何を得て、何を捨て去るのか?
もしくは、何を覚えて、何を忘れ去るのか?