街場の現代思想


今日も今日とて本を読む。ファイマン物理学が飽きたら、街場の現代思想と。
ご飯、おかず、ご飯のような読み方。

街場の現代思想内田樹、2004年、NTT出版


この本も内田先生の本。そして、階層化する日本を肌感覚としてとらえ、
言語化した本です。
とりあえず、これから日本で進んでいくであろう、一部の階層による、
文化資本の独占に警鐘を鳴らしている。


これまでの日本における階層は、金持ちか、貧乏かというお金を基準としたものであったが、
いま、日本で起こりつつあるのは文化資本の独占である。
引用すると、以下のような趣旨。

これと同じ傾向が、あらゆる知的領域でも生じつつあるように私には思われる。
それは「文化資本の偏在」というかたちで私たちの目の前に現象している。
東京大学教育学部佐藤学先生と先日お話する機会があった。そのときに佐藤先生がまず指摘されたのが、そのことだった。
東大入学者の親の年収が急上昇しており、親の経済力と子供が身につける学歴資本のあいだにはあらわな相関関係ができつつあることについてはすでにメディアも報じている。しかし自体はさらに深刻なようである。


東大生の一方には、幼少時代から豊かな文化資本を享受してきた階層の子どもたちがいる。芸術作品についての鑑識眼が備わっているとか、ニューヨークとパリにセカンドハウスがあるとか、数カ国語が読めるとか、能楽を嗜んでいるとか、武道の免許皆伝であるとか、自家用の外洋クルーザーがあるとか・・・・・そういう豊かな文化資本を潤沢に享受してきた学生がいる一方に、ひたすら塾通いで受験勉強だけしてきて成績以外にはさしたる取り柄のない大多数の学生たちがいる。この二集団の間に歴然とした「文化的な壁」が構築されつつあり、それが彼らのコミュニケーションを阻害しているように見える、というのが佐藤先生のお話であった。

=中略=

そのように「中流」の定義が「グレー」だったのは、最終的に「上流」とか「中流」とかの差別化の指標となっていたのが「年収」だったからである。
「年収」はその定義上毎年変わる。栄耀栄華を謳歌していたバブリーな紳士が夜逃げして、四畳半一間に逼塞するということは珍しいことではないし、昨日までコンビニで働いていた姉ちゃんが一夜にしてアイドルスターになるということだってなくはない。
言い換えれば「年収」によって階層化される社会は流動性が高い、ということになる、ところが、いま社会は流動性を失い、ゆっくりではあるが停滞し始めている。


佐藤先生が東大で顕在化してきたと指摘しているのは、「文化資本の差」による「二極分解」である。
文化資本」が作る境界線と、「年収」が作る境界線とでは「壁」の高さも桁が違う。年収は本人の努力によっていくらでも変わりうるけれど、子どもの頃から浴びてきた文化資本の差は、二十歳すぎてからは埋めることが絶望的に困難だからである。しかし、そのような「成人して以降はキャッチアップ不能の指標に基づく階層差」が今生まれつつある。


p12-14


引用疲れた。。。
じゃ、お休み。